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2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 2

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

小出公園(松ケ池公園)の大正3年と昭和9年

 

               大正3年の地図

 

 

あら町の薬師寺をまっすぐ東へ、神明通りを進むと「松ケ池公園」が見えてくる。この公園は明治17年頃から、小出区民によって、つまり民間で造成されていったもの。その頃は「小出公園」と言っていたが、池を掘り松を植えるなどし明治29年、「松ケ池公園」と命名した。その後、花作・七兵衛つつじを移植、桜も植えながら公園化を進めた。現在のつつじ館までほぼ方形となったのが明治43年で、七兵衛つつじの全部を公園に移植した。このころから「つつじ公園」と呼ぶようになる。明治30年、園内に日清戦争の紀功碑を建立。明治39年には日露戦争の「西置賜郡招魂碑」を建立し、合わせてケヤキ・マツ・スギ・イチョウ・ヒノキを植えた「五訓の森」を整備した。現在の菅原白龍先生の碑が建っているところだ。この招魂碑は太平洋戦争時の金属供出(昭和18年)ですべてがなくなった。このころは、「松ケ池」はあるが、「ひょうたん池」は、まだない。

 

明治41年の松ケ池公園。公園の南西から撮影されたもの。左に松ケ池がある。

 

日露戦争紀功碑を東北から見た風景。東屋があり、野呂川沿いの土塁も現在とは違う

 

西置賜郡招魂碑。土塁の大きさは、底辺が14.4m四方、高さが3.6m。

 

招魂碑を西から見たもの。右側に五訓の森がある。

 

 

          昭和9年の地図   

 

地図上ではあまり変わらないが?は演芸館。

 

 

七兵衛つつじ。昭和2年以降の写真で、照明が入れられている。右側が松ケ池

 

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された写真「演芸館」。多くの催しが行われた。演芸館は、山形から移築したもの。山形県庁(現文翔館)落成を記念して、大正5年の秋に催された「奥羽六県連合共進会」の娯楽施設として県庁敷地内に整備された。この共進会には長井からも紬など、多く参加している。白亜の威容を誇り長井名物となった。

 

 

松ケ池に架かる「八千代橋」の渡り初め。昭和4年9月15日。

 

  

 

 

 

 

2015.03.25
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