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軽鉄人物伝? 荒砥町6人衆(その4)

   この資料から確認できる経過を整理してみる。1)軽便鉄道敷設の請願は明治44年から行ってきた。敷設が長井町までと決定された後も、最上川右岸を通って荒砥まで延長するよう引き続き請願してきた。2)政府は大正6年12月の鉄道会議において、長井荒砥間の延長を大正8年より3か年間で敷設することを決定した。3)大正8年3月鉄道院告示第2号を改正して、新庄建設事務所所管に長井荒砥間を加え最上川左岸の測量を開始した。4)最上川左岸の測量は比較検討の調査であると思っていたが、大正8年5月12日、西置賜郡長 清水徳太郎氏が郡内町村長会において、長井線の延長は最上川の左岸で鮎貝村がその終点となる事がほぼ内定であり、郡内町村一致して荒砥まで延長請願すべき旨の説明があった。

   これによると長井線のルートは、大正6年12月から大正8年3月までの間に、最上川左岸に変更されたと思われる。この政治的な決定に対して、鉄道院の幹部は「鮎貝を終点とし、駅名を荒砥にせざるを得ない。」と憤慨したのであろう。(参照:軽鉄人物伝? 小林源蔵(その3))。こうした状況において、大正7年8月から大正8年7月まで西置賜郡長であった清水徳太郎は、郡内が一致して荒砥までの延長を請願しようと呼びかけたのであろう。鉄道院の出身でありながらも、郡長としての責任を果たそうとする清水氏の姿が見えて来るのである。

   なお、請願団体が荒砥町有志による荒砥軽鉄期成同盟会(明治43年秋設立:米澤新聞大正12年.4.22)なのか、置賜1市3郡で構成した置賜期成会(明治28年1月設立:山形県議会80年史P753)、あるいは次回に示す置賜実行委員会(米沢日報明治44.12.7)なのかは不明である。

 

【請願書資料提供:ふるさと資料館(南陽市宮内)】

【その他参考資料:官報第1995号(大正8年3月31日)、米澤新聞、山形県議会80年史】

2019.07.21
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